Sunday, July 26, 2009

被害者という罪

漢数字をアラビア数字に変えました。

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なぜ私だけが苦しむのか
現代のヨブ記
H.S.クシュナー
 ドイツ語の心理学用語に、Schadenfreudeというのがあります。自分ではなく他人がなにか不利益(Schaden)をこうむったときに、思わず安堵の喜び(Freude)を覚えて困惑することを意味します。自分は無傷なのに20メートルほど離れたところにいた仲間が戦死したという兵士、他の生徒がカンニングしてつかまるのを見ている生徒——彼らはべつに、自分の友人が災難にあうことを願ったわけではないのですが、災難が自分以外の他人にふりかかったことを、とまどいを覚えつつも喜ばずにいられないのです。たとえば、(幼い子を失った:引用者)ロンやヘレンを慰めようとした友人たちも、自分たちの心の中で、「自分がこんな目にあっていたかもしれない」という声を聞くのですが、それを打ち消そうとして、「いや、そうじゃない、これが自分にではなく彼に起こったのには、なにか理由があるんだ」と言うのです。
 被害者に責めを負わせるこのような心理学は、いたるところで見られます。そうすることによって、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなるように思えるのです。もし、ユダヤ人たちの言動が違ったものであったら、ヒトラーは彼らを大量に殺しはしなかったかもしれない。あの若い女性があれほど挑発的な服装をしていなかったら、男は彼女に暴行することはなかった。もっと一生懸命に働いていれば、彼らは貧しくはなかっただろう。もし社会が貧しい人をそそのかすような宣伝や広告をしなかったなら、盗みをはたらく者もいないだろうに。
 犠牲者をこのように悪く言うのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりの理由があるのだ、と言って自分自身を安心させるためのひとつの方法なのです。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功はたんなるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたのだ、と信じる役にも立っています。この考えは、全ての人の気分を良くしてくれるのです——犠牲者を除いて。被害者のほうは、それでなくても不幸な出来事の極みにあるというのに、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わうことになるのです。

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