Sunday, July 26, 2009

被害者という罪

漢数字をアラビア数字に変えました。

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なぜ私だけが苦しむのか
現代のヨブ記
H.S.クシュナー
 ドイツ語の心理学用語に、Schadenfreudeというのがあります。自分ではなく他人がなにか不利益(Schaden)をこうむったときに、思わず安堵の喜び(Freude)を覚えて困惑することを意味します。自分は無傷なのに20メートルほど離れたところにいた仲間が戦死したという兵士、他の生徒がカンニングしてつかまるのを見ている生徒——彼らはべつに、自分の友人が災難にあうことを願ったわけではないのですが、災難が自分以外の他人にふりかかったことを、とまどいを覚えつつも喜ばずにいられないのです。たとえば、(幼い子を失った:引用者)ロンやヘレンを慰めようとした友人たちも、自分たちの心の中で、「自分がこんな目にあっていたかもしれない」という声を聞くのですが、それを打ち消そうとして、「いや、そうじゃない、これが自分にではなく彼に起こったのには、なにか理由があるんだ」と言うのです。
 被害者に責めを負わせるこのような心理学は、いたるところで見られます。そうすることによって、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなるように思えるのです。もし、ユダヤ人たちの言動が違ったものであったら、ヒトラーは彼らを大量に殺しはしなかったかもしれない。あの若い女性があれほど挑発的な服装をしていなかったら、男は彼女に暴行することはなかった。もっと一生懸命に働いていれば、彼らは貧しくはなかっただろう。もし社会が貧しい人をそそのかすような宣伝や広告をしなかったなら、盗みをはたらく者もいないだろうに。
 犠牲者をこのように悪く言うのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりの理由があるのだ、と言って自分自身を安心させるためのひとつの方法なのです。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功はたんなるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたのだ、と信じる役にも立っています。この考えは、全ての人の気分を良くしてくれるのです——犠牲者を除いて。被害者のほうは、それでなくても不幸な出来事の極みにあるというのに、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わうことになるのです。

Thursday, July 23, 2009

人生=日常

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The Art of Learning
Josh Waitzkin
My answer is to redefine the question. Not only do we have to be good at waiting, we have to love it. Because waiting is not waiting, it is life. Too many of us live without fully engaging our minds, waiting for that moment when our real lives begin. Years pass in boredom, but that is okay because when our true love comes around, or we discover our real calling, we will begin. Of course the sad truth is that if we are not present to the moment, our true love could come and go and we wouldn't even notice. And we will have become someone other than the you or I who would be able to embrace it. I believe an appreciation for simplicity, the everyday --the ability to dive deeply into the banal and discover life's hidden richness-- is where success, let alone happiness, emerges.

拙訳
(突然大きなチャンスが訪れたらどうすればいいのかという疑問に対して)僕の答えは、質問をよく見直してみる、というものだ。僕たちは待つことが得意にならなきゃいけないだけじゃなく、愛さなくてもいけない。というのも、待つことは待つことじゃなくて、人生だから。僕たちの内の多くの人が、その精神を遊ばせたまま、本当の人生が始まるのを待っている。退屈のうちにいく年も過ぎていくが、それでいい。だって、本当の恋人に巡り会えた時に、あるいは天職を見つけ出した時に、僕たちの人生は始まるのだから。もちろん、残念な真実として、その決定的な瞬間に僕たちが居合わせなければ、生涯のパートナーはただ通り過ぎるだけだし、僕たちも気づくことさえないだろう。そして僕らは、その瞬間をものにした僕やあなたとは、ちがう人物になってしまっているだろう。それでも、僕はシンプリシティ(単純さ)に価値があると信ずる。平凡さのなかに深く潜って人生の隠された豊かさを発見する能力があれば、日常こそが成功とそして当然幸福が、現れる場所になる。

Tuesday, July 21, 2009

イヤな奴

漢数字をアラビア数字に変えました。

クソッタレ=イヤな奴。
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あなたの職場のイヤな奴
ロバート・I・サットン
 感情感染の調査からは、つぎのこともわかっている。話をしている相手が不愉快な表情(顔をしかめるとか、にらみつけるとか)をすると、人はそれに"感染"してしまい、知らず知らず自分自身まで不機嫌で怒りっぽくなる。怒っているような顔をしている人のそばにいると実際に怒りが湧きあがってくるのである。ハットフィールド教授はアラビアのことわざを引用し、こうした感情感染の調査結果を「邪悪な人間とつきあっていると、賢人は愚かになる」と要約した。
 クソッタレは品性を吸いとる掃除機のようなもので、周囲の人間から温かい心と優しさを奪い、軽蔑心と冷酷さを植えつけてしまう。こうした危険に対して、いまは亡きビル・レイジアーは、わたしにこんなアドバイスをしてくれた。ビルはビジネス界で大きな成功をおさめた人物で、引退するまでの20年間、スタンフォード大学でビジネスと起業家精神を教えていた。
「なにか新しい仕事をオファーされたり、うちのチームに参加しないかと声をかけられたときには、将来いっしょに働くことになるかもしれない人たちをじっくり観察することだ」というのがビルの持論だった。
「問題は、たんに彼らが成功しているかどうかだけではない。将来の同僚たちがもし自己中心的で、卑劣で、狭量で、非倫理的だとしたら(もしくは働きすぎで身体を病んでいるとしたら)、きみがそうした人たちや職場の環境を改善できる可能性はほとんどない。たとえそこがほんのちっぽけな会社であったとしてもだ。クソッタレでいっぱいのグループに参加したら、自分もおなじ病気にかかる公算が大きいと思ったほうがいい」

たしかに既得権者に問題はある。しかし…

漢数字をアラビア数字に変えました。

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ケインズの闘い
ジル・ドスタレール
 1922年12月5日の銀行研修所での講義において、彼(ケインズ:引用者)は、貨幣賃金は物価よりも硬直的であり、それゆえ、それを急速に大きく修正しようと努めることによって経済均衡を再び達成しようと試みることは無駄であるという考えを展開した。「賃金を一定の水準に切り下げるとか、その種のことで均衡に達することはほとんど絶望的であるか、そうでなくとも長い時間がかかります」(1922-31,p.66 [邦訳68頁])。こうした見解にもかかわらず、彼は、失業の持続が高すぎる実質賃金水準と関係していると考えていた。けれども、いまや彼は、貨幣賃金を切り下げる試みによって失業は減少させることはできないと確信していた。実質賃金の下落は、物価の上昇によってのみ達成することができる。実質賃金との関係において為替相場や物価水準を調整しなくてはならないのであって、その逆ではないのである。

Sunday, July 19, 2009

リフレ派の主張ってそんなに珍しいですか?

図は省略です。
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マクロ経済学
パーフェクトマスター
伊藤元重・下井直毅

デフレーション

 物価が持続的に下がっていく現象をデフレーションといいます。戦後、ほとんどの国でデフレーションの経験はなかったのですが、1990年代の後半から、日本は厳しいデフレーションに陥っています。物価が下がっていくのは、図10-1に示されているように、総需要曲線の左方向へのシフトと、総供給曲線の右方向へのシフトによって起こりえます。前者は消費や投資の低迷などで需要が不足することで物価が下がるケースで、後者は技術革新や低価格品の輸入の増加などで供給が拡大することで物価が下がるケースです。現在の日本では両方の現象が起きていますが、とくに前者の影響が大きいものと考えられます。なぜなら、物価の下落と同時に失業の増大や生産の低迷が起きているからです。
 インフレとは逆に、デフレの場合は、債務者が大きな実質負担を被ることになります。1%の物価の下落は、実質債務の1%増を意味するからです。とくに、物価の下落が売上げや所得の減少をもたらし、需要が縮小し、さらにいっそうの物価下落を招くというデフレ・スパイラルがもたらす経済へのマイナスの影響ははかりしれません。そうした状況を打開するために調整インフレという政策が打ち出されることがあります。

《チェックポイント》
調整インフレ(adjustment inflation):金融緩和政策によって貨幣量を増大させ、人々の期待インフレ率を高めて、物価を上昇させていく政策をいう。その手段としては貨幣供給量の増加率やインフレ率の目標を発表し、実現することなどがある。
 この政策のメリットとしては、インフレ率の上昇によって実質利子率を低下させ、設備投資や住宅投資を刺激することや期待インフレ率を高めることで株価や地価を上昇させて景気を浮揚させること、また長期的にはインフレによって政府の債務が目減りして財政赤字の問題を解決できるなどがあげられる。しかし、調整インフレについては、そもそも期待インフレ率を高めることができるのかということや、インフレが生じてもそれをコントロールできるのかということなど、その影響や効果など多様な問題を含んでおり、さまざまな議論がある。

ビジネスの要諦

著者である小倉昌男氏はヤマト運輸の二代目社長です。

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「なんでだろう」から
仕事は始まる!
小倉昌男
 ところで、私が前に、人事考課における社員の評価基準は、つまるところ「人柄」に行き着くのではないかという話をしたことを覚えておいでだろうか。社員の業績をいかに評価するかということについてさんざん悩み、結局は社長を辞めるまでその問題に答えを出せなかった私の、それが当面の結論である。
 もちろん、この考え方には異論もあるだろうし、私もそれが「正解」だと思っているわけではない。実際、「人柄」などという目に見えないものを評価しろと言っても、公正な人事考課システムを作ることなどできないだろう。
 しかし少なくとも、それを人事考課の対象とするかどうかは別にして、ビジネスをする人間に「人柄」が求められることは間違いない。たしかに職務上のスキルや実行力も大切だし、数字のような目に見える結果を出すことも大事だ。でも、それだけでは本当に人の役に立つビジネスマンとはいえない。
 もちろん、業績を伸ばせば「会社」の役には立ったことにはなるだろう。だが、それが必ずしも「社会」の役に立っているとはかぎらないのだ。事実、談合によって仕事を取ってきた人間は、会社の売上げアップには貢献しただろうが、社会の役には立っていない。むしろ迷惑をかけている。
 ビジネスマンに「人柄」が求められるのは、とりもなおさず、仕事の根幹が人間関係にあるからだ。社内か社外かを問わず、仕事にはさまざまな人間関係が発生する。
 その人間関係を円滑に、つまりお互いが納得できるような形で作れるかどうか。それができることが、「人柄がいい」と言われるための大前提であり、最低条件だと言えるのではないだろうか。そしてある意味で、ビジネスの要諦はそこにあるとさえ言えるだろう。どんなに特別なスキルよりも、その人間関係を作る能力、つまり「人柄」のよさが、ビジネスでは大きな力を発揮するのである。

Saturday, July 18, 2009

停滞の理由

利子率=金利。

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経済政策を
歴史に学ぶ
田中秀臣
 長期不況を解くキーはデフレが将来も続くと考える人々の期待にある。たとえば投資や消費は現在と将来の取引ともいえる。なぜなら新規プロジェクトを立ち上げる際に銀行から資金をファイナンスする際に重要なのは現在の利子率である名目利子率ではなく、その借り入れた利子率が返済までの将来時点でどう変化するかを表した実質利子率である。実質利子率は名目利子率から予想されるインフレ率を退いたものに等しくなる。
 これは消費のケースでも自動車や住宅を購入するときのローンの返済を念頭に置けばいいだろう。投資でも消費の場合でも、実質利子率が高ければそれだけ返済コストが増えるので投資や消費は低下する。その反対に実質利子率が低ければ返済コストが抑えられ、より多くの消費と投資が可能になる。
 日本の長期停滞の特徴であるデフレとゼロ金利の状況を考えてみよう。たとえば目にする名目利子率はゼロであっても、デフレが数%続くと予想すればそれだけ実質利子率は高くなり景気を悪くする。日本の不況がこれほど長く続いたのは人々のデフレ期待が頑固に定着したからである。そしてこの金融市場の不調整が、労働市場の賃金の下方硬直性と衝突すること(既存正社員の交渉力を高めて新卒採用を制限すること)で失業を高めてしまう、というのが大まかな長期不況のシナリオである。

Friday, July 17, 2009

お粗末な人生

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男はプライドの
生きものだから
テレンス・リアル
 彼は自分が望む将来のゴールはしっかりと見定めていたが、過去はことごとく消却してしまっていた。思い出したくない過去に背を向けて痛みを埋葬しようとしたのだが、彼の感情はそれについていけなかった。酔いつぶれた母のそばに侍る少年は、自分が大人になったら家族をこんな目には遭わせたくないと思ったにちがいない。しかし、彼が自分の家族に与えたものは、逃れようとした過去とさして変わらない生活だった。デイビッドは暴力へ、トーマスは家庭を放棄することへと、どちらも無意識のうちに、自分自身が体験したことと同じものを家族にもたらしたのである。
 トーマスが長い間抱えていた「隠れたうつ病」は娘たちに拒絶されて自分の存在感が危うくなった時に、深刻な「表面化したうつ病」に変わった。トーマス自身が、常に背後に暗いものがつきまとっていたことを、後になって認めている。
「何をしても充実感はありませんでした。むしろ、こうして突っ走っていなければ何かひどいことが起こるような気がしてました。仕事で成功するたびに少しずつ楽にはなってきたが、いつも次に何が待ち構えているかを恐れて、気の休まることはなかったのです」
 友人もなく、仕事以外に興味を寄せるものもなく、家庭では他人のように振る舞うだけのトーマスは、食べ物と職場での賛辞と有望株の明細書を慰めにして生きてきた。
「こうしてみると、お粗末な人生でした」
 彼は無念そうに認めた。トーマスは自分でも気づかずに、愛情に飢え、自分を無価値に感じていた子供のころの痛みから逃げようとしていた。経済的に豊かになることにその代償を求めて逃げつづけてきたのである。今回の危機が訪れるまでは、人並み以上の財産や仕事の手腕や地位など、外的な要素で心の傷の一部を癒すことができたのである。彼にとっては、これが真の人間関係の代わりに服用せざるを得なかった薬だった。多くの「隠れたうつ病」の男性と同様に、トーマスも自分自身の感情を正視できないために、他者と親密な関係を持てなかった。

Thursday, July 16, 2009

マ元帥のパーフェクト世界恐慌教室

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均衡財政
附・占領下三年の
おもいで
池田勇人
私は昭和二十五年の四月、渡米するに先立ってマッカーサーと会った。有名な何とかいう百姓のようなパイプを右手にしてマッカーサーが開口一番「金(きん:引用者)は、」といった時、サスペンスもあり十分な役者であったが、その説くところの深いのには感心させられた。彼は要するに「金」は何世紀の間人類の交易の手段であり、したがって和解の手段であった。ところが、今やその大部分が米国に集まってしまった結果、各国の間の交易の手段は失われんとし、それにしたがって和解の道も閉ざされようとしている。しかも、金に代わるものはまだ生まれていない。その結果としてアメリカには「過剰のための貧困」があり、丁度日本の「貧困のための貧困」と対照をなしている。いずれも困難な問題である。というのである。「金」に代わるものは「信用」なのだ、と私はいおうと思ったが、マッカーサーは一度話し出すとなかなか雄弁で止まらない。「そもそも大蔵大臣というものは」というのが次のセンテンスの始まりで、大蔵大臣は国民から憎まれることをもって職とせねばならぬ(彼がこの時腹の中で、私がその一月ほど前にいった中小企業の五人や十人つぶれても云々ということばを想い浮かべていたことは明らかである)、何となれば、大蔵大臣の職務はできるだけ国の費用を切り詰め、国民の租税負担を軽くすることでなければならぬ。支那の王道は、国民の税金を減らすことを最高の目的とした。古今東西政権の交代をみるに、政道にある者が奢侈にわたれば必ず百姓は一揆し、逆に質素を旨とする王者は長く民生の安定をえている。そこで、貴下の当面の問題は、まず日本国民の税金を減らすこと、それから官吏の給料がいかにも低いから、これを適当に引き上げて、徐々に国民生活の向上をはかることであろうと思う、というのがマッカーサーの考え方の趣旨であった。

Wednesday, July 15, 2009

英雄 范蠡(はんれい)

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中国英傑伝
海音寺潮五郎
 英雄、頭をめぐらせば神仙、ということばがあるが、范蠡がその人である。范蠡こそは、ずっと後世まで、中国人が理想的人間像として仰望している人物であるが、その処世術の根本は、すでに前に言った。
「満は損を招き、亢竜悔あり」
 という易の原理である。満つる前に身退くというに尽きる。いわゆる明哲保身である。

努力なく生きる

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子供たちとの対話
J・クリシュナムルティ
 私たちを滅ぼすのは努力であり、生のほとんどすべての瞬間を費やすこの闘いなのだと思います。まわりの大人たちを眺めると、彼らのほとんどにとって、生とは自分や妻、夫、隣の人、社会との闘いの連続だとわかるでしょう。そして、この絶えまない苦労が精神を消耗させるのです。喜ばしく本当に幸せな人は努力に囚われません。努力なしであるとは、停滞していたり、鈍く愚かだということではありません。反対に、努力や闘いから本当に自由であるのは、賢い人、とてつもない智慧のある人だけなのです。
 しかし、私たちは努力がいらないということを聞くとき、そうなりたいし、苦労や葛藤のない状態に到達したくなります。それで、そのことを自分の目標や理想にしてそれを求めて奮闘します。そして、そうしたとたんに、生きる喜びを失っています。またしても、努力や闘いに囚われているのです。

おもいやりについて

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ビジネスで失敗する人の
10の法則
ドナルド・R・キーオ

イエズス会の聖職者で、優れた古生物学者のテイヤール・ド・シャルダンは、「人が進化して未来を切り開いていくのは、すべての人たちとのつながりのなかでしかありえない」と述べている。ほんとうにそうだと思う。したがって、思いやりと敬意をもって他の人たちに接するのは、人として義務だというに止まらない。われわれ人類が生き残っていくために不可欠なのである。倫理を無視する人はしばらくの間、うまくいくことがありうるし、かなりの期間にわたってうまくいくこともある。しかし倫理感覚に欠け、謙虚さに欠けることから、いずれ失敗する。土台が腐っていれば、永続する強固な事業を築くことはできない。