Monday, August 3, 2009

略奪と創造

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コンパクト
日本経済論
原田泰
 すなわち、明治維新の指導者たちは、経済発展の要諦は、人民における自主の精神と実用の学問の普及だと認識している。ここで実用の学問とは、儒教批判であり、欧米のプラグマティズムへの評価でもある。欧米列強が黒船で日本に開国を迫ったとき、儒学は何の役にも立たなかった。役に立つ学問を国民に広げ、人々の精神を盛んにすれば富を創造でき、国を富ませば、強兵と国家の独立が可能になると認識している。
 明治の日本人は、富は自ら創造するものだと認識したのに、昭和初期の日本人は、富は略奪だと認識した。富を略奪であると認識し、しかも、それが欲しいと言えば、戦争をするしかない。近衛が、「英米本意の平和主義を排す」を書き、政治の頂点に上がろうとしたときから、日本が戦争をするのは必然だった。近衛の認識は、倫理的に正しくない上に、事実としても誤っていた。略奪によって富を得ようとすれば、略奪される側も抵抗する。満州事変ではすぐに逃げていた中国軍も、次第に頑強に抵抗するようになってきた。
 アメリカの経済的成功の秘訣についての認識は、明治の元勲に共通のものだった。もちろん、戦前昭和にも、石橋湛山のように、富を略奪であると認識することの誤りを指摘していた人々はいた(「大日本主義の幻想」『石橋湛山評論集』岩波文庫,1991年,原論文1921年)。しかし、それは明治のように、権力エリート共通の認識にはならなかった。
 戦後の繁栄と平和と自由は、戦前昭和を否定し、富は略奪ではなく創造できると考えたことから始まったことを忘れてはならないだろう(このような議論については、原田(2007)参照)。

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