Friday, August 7, 2009

ひとりよがりな言葉

図書館で借りた本。アマゾンにはないみたいなので原書をリンク。

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The Case of Nora
Moshe Feldenkrais
Q 抽象概念をいつも軽蔑なさっているようですが、どうしてですか?
A 名詞はほとんど記号ですね。「椅子」という言葉は単なる記号にすぎず、座るときに使う何百というさまざまの家具のどれかを指しているわけではありません。しかも「椅子」という概念には具体的なものがなにも含まれてはいませんから、それは一つの抽象です。言葉は、主としてあるいはもっぱらコミュニケーションの道具だと認めるかぎりでは、抽象にはなにも悪いところはありません。
たとえば、「定位」とか「無意識」という言葉が考えつかれたとき、それらの言葉はある概念の詳細な説明を短縮し要約するために使われました。しかしながら、ときが経ってしだいに使い慣れてくると、言葉は物に、実在するなにかに変わってきます。「無意識」という言葉は、すでにずっと前からある複合したものを表現しなくなり、一つの物になっています。あなたがなにかを考えたり話したりするとき、それはだれがそうしているのでしょうか? あなたでしょうか、それともあなたの無意識でしょうか? 簡単には答えられません。「あなた」という抽象と「無意識」という抽象のさまざまの違いを明らかにする丹念な作業が必要になります。
だれでも抽象概念を使いますが、「方向」感覚や「平衡」感覚が損なわれたときにどうしたらいいかとなると、途方に暮れてしまいます。運動失調症に陥っている人の平衡感覚を回復するにはどうすればいいのでしょう? 平衡感覚というものは、運動失調症そのものに内在しているのでも、欠落しているのでもありません。その場合には、そもそも最初に運動失調症と平衡感覚という抽象概念の元になった詳しい内容を知ることがもっと具体的になることに役立ちます。要するに、抽象概念は思考を怠惰にし、混乱させるだけです。

モーシェ・フェルデンクライス『脳の迷路の冒険 フェルデンクライスの治療の実際』[p.141-142]


Q あなたは全ての抽象概念を人間的事象に関係した抽象概念と同じような態度で見ているのですか?
A そうです。「速度」の例を取り上げましょう。あなたは速度を増やしたり減らしたりできますか? 速度の方向づけというような抽象概念はどうにも扱いようがありません。一体なんの速度を変えるのかを知らなくてはなりません。自転車や自動車の速度を変えることはできますが、光の速度を変えることはできないし、地球や太陽の回転を速めることは不可能です。同様に、概念の方向づけを変えるなんてことは、だれを方向づけるのか、正確にどういう欠点があるのか知らないかぎり、だれにもできません。三半規管に欠陥があるかもしれません。神経系へのフィードバック機能になんらかの欠陥があるかもしれませんし、もっと他のものに欠陥があるかもしれません。使い慣れた言葉は、しばしばひとりよがりに陥れるもので、そういう場合には建設的な思考が妨げられます。

同書[p.143-144]

Monday, August 3, 2009

略奪と創造

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コンパクト
日本経済論
原田泰
 すなわち、明治維新の指導者たちは、経済発展の要諦は、人民における自主の精神と実用の学問の普及だと認識している。ここで実用の学問とは、儒教批判であり、欧米のプラグマティズムへの評価でもある。欧米列強が黒船で日本に開国を迫ったとき、儒学は何の役にも立たなかった。役に立つ学問を国民に広げ、人々の精神を盛んにすれば富を創造でき、国を富ませば、強兵と国家の独立が可能になると認識している。
 明治の日本人は、富は自ら創造するものだと認識したのに、昭和初期の日本人は、富は略奪だと認識した。富を略奪であると認識し、しかも、それが欲しいと言えば、戦争をするしかない。近衛が、「英米本意の平和主義を排す」を書き、政治の頂点に上がろうとしたときから、日本が戦争をするのは必然だった。近衛の認識は、倫理的に正しくない上に、事実としても誤っていた。略奪によって富を得ようとすれば、略奪される側も抵抗する。満州事変ではすぐに逃げていた中国軍も、次第に頑強に抵抗するようになってきた。
 アメリカの経済的成功の秘訣についての認識は、明治の元勲に共通のものだった。もちろん、戦前昭和にも、石橋湛山のように、富を略奪であると認識することの誤りを指摘していた人々はいた(「大日本主義の幻想」『石橋湛山評論集』岩波文庫,1991年,原論文1921年)。しかし、それは明治のように、権力エリート共通の認識にはならなかった。
 戦後の繁栄と平和と自由は、戦前昭和を否定し、富は略奪ではなく創造できると考えたことから始まったことを忘れてはならないだろう(このような議論については、原田(2007)参照)。

Sunday, August 2, 2009

自信たっぷりに振る舞えば、あなたが何を言っても信じてもらえる(かもしれない)

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1997年—
世界を変えた
金融危機
竹森俊平
財政赤字が累積した結果、日本の国・地方を合わせた債務残高は、GDPの170%に及ぶ。このままでは、やがて日本の財政は破綻するという意見がある。日本は国債のディフォルト(債務不履行)を迫られるというのだ。本当にそうなのか? なぜ、そう言えるのだろう?
 あるいはこうも言う。いまやアメリカの経常収支の赤字はGDPの7%に及ぼうとしている。これ以上、経常収支の赤字が膨らむと、国際通貨としてのドルの信用は失墜しドル価値は暴落するというのである。本当にそうなのか? なぜ、そう言えるのだろうか?
 客観的な事実を述べるならば、戦後において先進国が自国通貨建てで発行した国債のディフォルトをした事例もなければ、ある国の通貨が国際通貨という地位を過剰な経常収支赤字によって喪失したという事例もない。だから、どちらも「不確実性」である。それゆえ、これ以上財政赤字が増えるとディフォルトを余儀なくされるとか、経常収支の赤字が増えるとドル価値が暴落するとか、客観的な確率を提示して経済学的に論証することは不可能である。それにもかかわらず、上のような主張は著名な経済学者によってなされている。「不確実性」についての合理的判断は不可能というナイトの立場からすれば、「ディフォルト」や「通貨信用」についてこれだけ堂々と議論できるというのは眉唾だ。経済学はそこまで強力ではない。