それというのも、工場に対する感嘆と恐怖の混じり合った感情以外に人々の心を惹きつける問題があったとすれば、それはこのどこにでも見られた稼ぎのない貧民の問題だったからである。1720年にはイギリスに、150万人ものこうした人々がひしめき合っていた。当時の全人口がわずか1,200万ないしは1,300万であったことを思えば、これは驚くべき数字である。したがって、当時は彼らをどう処置するかという計画がいろいろとあった(その大部分は、望みのない計画だったが)。というのは、当時一般に行きわたっていた不満は、貧民の怠惰は根絶しがたいというものであり、しかもこの不満には、下層階級が上流階級の習慣をまねることへの驚愕が含まれていた。現に、労働者は紅茶を飲んでいたし、庶民は昔からのライ麦や大麦のパンよりも、小麦のパンを好んでいたようである。こんなことではどうなるのだろうと、時の思想家たちはいぶかった。貧民の窮乏は(あの口の悪いマンデヴィルが1723年に「それを緩和するのは賢明だが、廃絶するのは愚行であろう」と述べたように)、国家の繁栄のために必要不可欠ではないのか、と。また、社会に不可欠な等級づけの消滅を認めるならば、社会はいったいどうなるのだろうか、と。
入門経済思想史
世俗の思想家たち
R・L・ハイルブローナー
「下層階級」についての危惧される大問題に対する時代の一般的な態度が驚愕だったにせよ、それがアダム・スミスの哲学を表すものでなかったことは確かである。「あまりに多くの者が貧しくみじめな社会が、繁栄したり幸福であるはずはない」と、彼は書いた。しかも彼は、このような急進的な声明を出すほどの無鉄砲さを備えていただけでなく、社会は実際に絶えず進歩しており、否応なしにある明確な目標に向かっていることを証明しようとした。社会が動くのは、だれかがそのことを意図したからでもなければ、議会が法案を通過させたからでもないし、イギリスが戦争に勝ったからでもなかった。ものごとの底流に、社会全体に力を与える巨大なエンジンのような原動力が隠されているから、社会は動くのだ、と。
[p.p. 95]
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Sunday, December 27, 2009
嫉妬
Friday, August 7, 2009
ひとりよがりな言葉
図書館で借りた本。アマゾンにはないみたいなので原書をリンク。
Q 抽象概念をいつも軽蔑なさっているようですが、どうしてですか?
The Case of Nora
Moshe Feldenkrais
A 名詞はほとんど記号ですね。「椅子」という言葉は単なる記号にすぎず、座るときに使う何百というさまざまの家具のどれかを指しているわけではありません。しかも「椅子」という概念には具体的なものがなにも含まれてはいませんから、それは一つの抽象です。言葉は、主としてあるいはもっぱらコミュニケーションの道具だと認めるかぎりでは、抽象にはなにも悪いところはありません。
たとえば、「定位」とか「無意識」という言葉が考えつかれたとき、それらの言葉はある概念の詳細な説明を短縮し要約するために使われました。しかしながら、ときが経ってしだいに使い慣れてくると、言葉は物に、実在するなにかに変わってきます。「無意識」という言葉は、すでにずっと前からある複合したものを表現しなくなり、一つの物になっています。あなたがなにかを考えたり話したりするとき、それはだれがそうしているのでしょうか? あなたでしょうか、それともあなたの無意識でしょうか? 簡単には答えられません。「あなた」という抽象と「無意識」という抽象のさまざまの違いを明らかにする丹念な作業が必要になります。
だれでも抽象概念を使いますが、「方向」感覚や「平衡」感覚が損なわれたときにどうしたらいいかとなると、途方に暮れてしまいます。運動失調症に陥っている人の平衡感覚を回復するにはどうすればいいのでしょう? 平衡感覚というものは、運動失調症そのものに内在しているのでも、欠落しているのでもありません。その場合には、そもそも最初に運動失調症と平衡感覚という抽象概念の元になった詳しい内容を知ることがもっと具体的になることに役立ちます。要するに、抽象概念は思考を怠惰にし、混乱させるだけです。モーシェ・フェルデンクライス『脳の迷路の冒険 フェルデンクライスの治療の実際』[p.141-142]
Q あなたは全ての抽象概念を人間的事象に関係した抽象概念と同じような態度で見ているのですか?
A そうです。「速度」の例を取り上げましょう。あなたは速度を増やしたり減らしたりできますか? 速度の方向づけというような抽象概念はどうにも扱いようがありません。一体なんの速度を変えるのかを知らなくてはなりません。自転車や自動車の速度を変えることはできますが、光の速度を変えることはできないし、地球や太陽の回転を速めることは不可能です。同様に、概念の方向づけを変えるなんてことは、だれを方向づけるのか、正確にどういう欠点があるのか知らないかぎり、だれにもできません。三半規管に欠陥があるかもしれません。神経系へのフィードバック機能になんらかの欠陥があるかもしれませんし、もっと他のものに欠陥があるかもしれません。使い慣れた言葉は、しばしばひとりよがりに陥れるもので、そういう場合には建設的な思考が妨げられます。同書[p.143-144]
Sunday, July 26, 2009
被害者という罪
漢数字をアラビア数字に変えました。
ドイツ語の心理学用語に、Schadenfreudeというのがあります。自分ではなく他人がなにか不利益(Schaden)をこうむったときに、思わず安堵の喜び(Freude)を覚えて困惑することを意味します。自分は無傷なのに20メートルほど離れたところにいた仲間が戦死したという兵士、他の生徒がカンニングしてつかまるのを見ている生徒——彼らはべつに、自分の友人が災難にあうことを願ったわけではないのですが、災難が自分以外の他人にふりかかったことを、とまどいを覚えつつも喜ばずにいられないのです。たとえば、(幼い子を失った:引用者)ロンやヘレンを慰めようとした友人たちも、自分たちの心の中で、「自分がこんな目にあっていたかもしれない」という声を聞くのですが、それを打ち消そうとして、「いや、そうじゃない、これが自分にではなく彼に起こったのには、なにか理由があるんだ」と言うのです。
なぜ私だけが苦しむのか
現代のヨブ記
H.S.クシュナー
被害者に責めを負わせるこのような心理学は、いたるところで見られます。そうすることによって、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなるように思えるのです。もし、ユダヤ人たちの言動が違ったものであったら、ヒトラーは彼らを大量に殺しはしなかったかもしれない。あの若い女性があれほど挑発的な服装をしていなかったら、男は彼女に暴行することはなかった。もっと一生懸命に働いていれば、彼らは貧しくはなかっただろう。もし社会が貧しい人をそそのかすような宣伝や広告をしなかったなら、盗みをはたらく者もいないだろうに。
犠牲者をこのように悪く言うのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりの理由があるのだ、と言って自分自身を安心させるためのひとつの方法なのです。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功はたんなるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたのだ、と信じる役にも立っています。この考えは、全ての人の気分を良くしてくれるのです——犠牲者を除いて。被害者のほうは、それでなくても不幸な出来事の極みにあるというのに、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わうことになるのです。H.S.クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか』[p.57-58]
Thursday, July 23, 2009
人生=日常
My answer is to redefine the question. Not only do we have to be good at waiting, we have to love it. Because waiting is not waiting, it is life. Too many of us live without fully engaging our minds, waiting for that moment when our real lives begin. Years pass in boredom, but that is okay because when our true love comes around, or we discover our real calling, we will begin. Of course the sad truth is that if we are not present to the moment, our true love could come and go and we wouldn't even notice. And we will have become someone other than the you or I who would be able to embrace it. I believe an appreciation for simplicity, the everyday --the ability to dive deeply into the banal and discover life's hidden richness-- is where success, let alone happiness, emerges.
The Art of Learning
Josh Waitzkin
拙訳
(突然大きなチャンスが訪れたらどうすればいいのかという疑問に対して)僕の答えは、質問をよく見直してみる、というものだ。僕たちは待つことが得意にならなきゃいけないだけじゃなく、愛さなくてもいけない。というのも、待つことは待つことじゃなくて、人生だから。僕たちの内の多くの人が、その精神を遊ばせたまま、本当の人生が始まるのを待っている。退屈のうちにいく年も過ぎていくが、それでいい。だって、本当の恋人に巡り会えた時に、あるいは天職を見つけ出した時に、僕たちの人生は始まるのだから。もちろん、残念な真実として、その決定的な瞬間に僕たちが居合わせなければ、生涯のパートナーはただ通り過ぎるだけだし、僕たちも気づくことさえないだろう。そして僕らは、その瞬間をものにした僕やあなたとは、ちがう人物になってしまっているだろう。それでも、僕はシンプリシティ(単純さ)に価値があると信ずる。平凡さのなかに深く潜って人生の隠された豊かさを発見する能力があれば、日常こそが成功とそして当然幸福が、現れる場所になる。
Wednesday, July 15, 2009
努力なく生きる
私たちを滅ぼすのは努力であり、生のほとんどすべての瞬間を費やすこの闘いなのだと思います。まわりの大人たちを眺めると、彼らのほとんどにとって、生とは自分や妻、夫、隣の人、社会との闘いの連続だとわかるでしょう。そして、この絶えまない苦労が精神を消耗させるのです。喜ばしく本当に幸せな人は努力に囚われません。努力なしであるとは、停滞していたり、鈍く愚かだということではありません。反対に、努力や闘いから本当に自由であるのは、賢い人、とてつもない智慧のある人だけなのです。
子供たちとの対話
J・クリシュナムルティ
しかし、私たちは努力がいらないということを聞くとき、そうなりたいし、苦労や葛藤のない状態に到達したくなります。それで、そのことを自分の目標や理想にしてそれを求めて奮闘します。そして、そうしたとたんに、生きる喜びを失っています。またしても、努力や闘いに囚われているのです。J・クリシュナムルティ『子供たちとの対話』 p.292
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